世界の時間の基準が、大きな転換点を迎えようとしている。2030年にも、国際単位系における「秒」の定義が見直される可能性があるからだ。その主役の一つとして注目されているのが、東京大学の香取秀俊教授が考案した「光格子時計」だ。

島津製作所は2026年5月12日、国際度量衡局、理化学研究所とともに、可搬型の光周波数標準に関する協力を開始したと発表した(関連記事)。これは、次世代の時間標準を国際的に比較・評価するうえで、持ち運び可能な高精度時計がどのような役割を果たせるのかを探る取り組みとなる。今回の協力には、産業技術総合研究所・計量標準総合センターも関与する予定だという。

現在の「秒」は、セシウム原子時計を基準に定義されている。しかし近年、光の周波数を利用する光周波数標準が急速に進歩し、従来のセシウム原子時計を上回る精度を示すようになった。国際度量衡局の説明でも、最先端の光周波数標準の一部は、セシウム噴水時計よりも大幅に低い不確かさと高い安定性を実現しているとされる。つまり、時計技術の進歩に対して、現在の「秒」の定義が追いつかなくなりつつある。
2030年という時期が意識されているのは、国際度量衡総会の手続きと関係している。国際度量衡局によれば、新しい秒の定義は、早ければ2026年に提案・検討され、2030年にも批准される見通しだ。
光格子時計は、香取教授が2001年に考案した原子時計である。レーザー光で作った「光格子」と呼ばれる微小な空間に多数の原子を閉じ込め、その原子が刻む極めて安定した振動を読み取る。多数の原子を同時に測定できるため、短時間で非常に高い精度に到達できる点が大きな特長だ。島津製作所は2025年、ストロンチウム光格子時計「Aetherclock OC020」の受注を開始し、光格子時計として世界初の商用機として発表している(関連記事①、関連記事②)。同機は18桁精度に相当し、100億年に1秒程度のずれに相当する性能を持つとされる。
今回のニュースの重要性は、光格子時計が研究室の成果にとどまらず、国際標準を支える実用技術として評価される段階に入った点にある。新しい「秒」を定義するには、世界各地の標準機関が持つ高精度時計を相互に比較し、その結果が一致することを確かめなければならない。島津製作所、理研、国際度量衡局の協力は、その比較を支える技術的な土台づくりといえる。
可搬型の光周波数標準が注目される理由もここにある。どれほど優れた時計であっても、特定の研究施設に据え付けられているだけでは、国際比較の自由度は限られる。移動可能な装置であれば、各国・各機関の時計をつなぐ「持ち運べる基準」として機能し得る。これは、2030年に向けた秒の再定義を現実の制度として運用するうえで、大きな意味を持つ。
香取教授の研究は、すでに国際的にも高く評価されている。2022年には、光格子時計の発明と発展への貢献により、基礎物理学ブレイクスルー賞を受賞した。これは、光格子時計が単なる計測装置ではなく、自然法則の精密検証を可能にする基盤技術として認められていることを示している。
秒の再定義は、日常生活の時計表示が突然変わるという話ではない。むしろ影響は、通信、測位、金融、地殻変動の観測、基礎物理の検証といった社会や科学の基盤部分に現れる。たとえば、重力の違いによって時間の進み方がわずかに変わることを利用すれば、標高差や地殻の上下変動を高精度に測る新しい技術にもつながる。島津製作所も、光格子時計の応用先として、地殻変動の観測や高精度測位などを挙げている。
日本で生まれた光格子時計が、世界の「1秒」を決める議論の中心に近づいている。基礎物理学の成果が、産業技術として形になり、さらに国際標準へと接続されていく。今回の発表は、その流れがいよいよ実装段階に入ったことを示すニュースである。
2030年に向けた秒の再定義は、科学史に残る節目になる可能性がある。そしてその舞台で、日本発の技術と研究者が重要な役割を担っていることは、きわめて大きな意味を持っている。



