1. はじめに
鉄は,我々の生活に欠かすことのできない材料である。建築物の骨組みや自動車に使用される鉄鋼材,モーターやハードディスクに用いられる磁性材料,さらには塗料や工芸品の素材として利用される酸化鉄など,鉄は多様な分野で活用されている。また,鉄は我々の体内にも存在し,ヘモグロビンなどのタンパク質の構成要素として,生命維持において重要な役割を果たしている。このように鉄が広く利用されている背景には,地球上の地表付近において最も豊富に存在する元素の一つであることに加え,異なる価数を取ることができるため,多様な化合物を形成する柔軟性を有している点が挙げられる。さらに,磁性を有することも鉄の重要な特性の一つである。
本稿で紹介する放射光顕微メスバウアー分光法は,鉄の化学相や価数などを高精度に分析できる手法であり,特にマッピングや局所領域の分析に優れている。従来のメスバウアー分光法は,化学状態の評価において有効な手段であるが,放射性同位体(RI)線源を用いるため,微小領域の分析や空間分解能を要するマッピング計測には制約があった。我々は,RI線源に代わり,より高輝度な放射光メスバウアー光源を活用することで,顕微分光計測装置を開発した。本稿では,この放射光顕微メスバウアー分光装置の概要と,鉄鋼材料に対する分析事例について紹介する。
2. メスバウアー分光法
メスバウアー分光法は,原子核の励起エネルギー準位を超精密に測定することにより,特定の原子核の化学状態や磁性を解析することが可能な分光法である。例えば,57Feに14.4 keVのエネルギーを持つγ線を照射すると,57Feの原子核はこれを吸収して励起状態となる。孤立した原子核の場合,励起準位は1本のみであるが,57Feが物質中に存在する場合には,電子と原子核との相互作用である超微細相互作用により,neV(ナノ電子ボルト)レベルのエネルギー準位の変化や分裂が生じる。このエネルギー準位の変化を精密に測定することで,原子の価数や磁気状態などを評価することが可能となる1)。
メスバウアー分光法では通常,放射性同位体(RI)線源から発生するγ線を使用する。このγ線はneVレベルの極めて高い単色性を有しており,トランスデューサーによってRI線源を振動させることで,ドップラー効果を利用してγ線のエネルギーを微細に変化させる。試料は線源と検出器の間に配置され,横軸にドップラー速度,縦軸に積算強度を取ったメスバウアースペクトルが得られる(図1)。1 mm/sの速度変化は約50 neVに相当し,簡便な装置構成でありながらneVレベルの超高精度な分光計測が可能である点が,本手法の大きな特徴である。この特性を活かし,メスバウアー分光法は火星探査機にも搭載され,惑星表面の分析に用いられた実績を有する2)。

メスバウアー分光法は複数の核種に適用可能であるが,特に57Feは多くの金属材料,鉱物,生体分子に含まれており,また57Coを親核種とするγ線源が適切な半減期を有していることから,57Feを対象としたメスバウアー分光が最も広く利用されている。
本手法により得られるスペクトルからは,化学分析において重要な3つのパラメータを抽出することができる。すなわち,スペクトルの重心位置から得られるアイソマーシフト,スペクトルのピーク位置の非対称度から得られる四重極分裂,そしてピークの分裂幅から得られる内部磁場である。アイソマーシフトは主に原子の価数状態に関する情報を提供し,四重極分裂は電子が原子核位置に形成する電場勾配の大きさに起因し,原子の配位状態に関する知見を与える。内部磁場は原子核位置における磁場によるスペクトルの分裂を反映しており,電子が原子核に及ぼす磁場から鉄の磁気モーメントの大きさを推定することが可能である。さらに,得られたスペクトルパラメータを既存のデータベースや文献と照合することで,化学相の同定が可能であり,スペクトルの面積強度を基に定量分析を行うこともできる。



