非破壊細胞診断のための新ペイント式ラマン顕微システム

2. ペイント式ラマン顕微システム(PRESS)

図2 PRESSの光路図<sup>10)</sup>(scale bar:10 μm)
図2 PRESSの光路図10)(scale bar:10 μm)

PRESSは倒立顕微鏡を筐体に組み込み,LD励起固体(DPSS:Diode Pumped Solid State)レーザー,分光器,冷却CCD カメラで構成される。PRESSの光路を図2に示す。532 nmの励起光はNeutral Density filter(NDF)とBand pass filter(BPF)を透過し,Flat mirrorおよびDichroic mirrorにより反射される。その後,励起光は二枚のガルバノミラーに到達する。本システムではこのガルバノミラーを高速に回転させることで,特定領域内をレーザー光が旋回しながら試料を照射することが可能である。試料から散乱された光は,レーザー入射光路と同じ経路をたどり,再びDichroic mirrorを透過する。散乱光はさらにHigh pass filter(HPF)を通して高周波数成分のみを透過させ,ラマン散乱光のみが分光器に集光される。分光されたラマン散乱光は冷却CCD カメラでラマンスペクトルとして検出される。

図3  PRESSと点照射法(Point)によるヒト免疫細胞のラマンスペクトル。核酸(783),蛋白質(1003,1450,1654),脂質(1125),シトクロムc(748,1580)(scale bar:10 μm)<sup>10)</sup>
図3  PRESSと点照射法(Point)によるヒト免疫細胞のラマンスペクトル。核酸(783),蛋白質(1003,1450,1654),脂質(1125),シトクロムc(748,1580)(scale bar:10 μm)10)

ここでは,ヒトの免疫細胞からラマンスペクトルを従来の点照射法またはPRESSで取得した結果を示す(図3)。露光時間はわずか3秒とし,PRESSは直径10 μmの円領域を,点照射法は細胞内の3か所のみをランダムに測定した。核酸,蛋白質,脂質など一般的なピークが両方の手法で観察され,信号強度に差は見られなかった。しかし,点照射法では例えば,783 cm–1 や1125 cm–1の信号強度が測定箇所により異なっていた。一方で, PRESSでは測定面積が小さくなるほど,点照射法と同様に信号強度が変動した。この結果から,PRESSは広範な領域を短時間で測定することで測定箇所のばらつきを抑えることが可能であり,高感度に細胞からスペクトルを取得できることが示された。

3. 細胞の種類分類

図4 4種類の細胞の分類<sup>10)</sup>
図4 4種類の細胞の分類10)

実際に,PRESSを用いて4種類の細胞(免疫細胞,線維芽細胞,間葉系幹細胞,ヒト人工多能性幹(iPS)細胞)の分類に挑戦した。各細胞150個のラマンスペクトルを取得し,平滑化,ベースライン補正および正規化の情報処理を行った。図4(a)には各細胞の平均スペクトルを示す。細胞の種間で一見してわかるような特徴的ピーク波長は検出されなかったため,機械学習を用いて特徴的ピークを顕在化し,それを用いた細胞種の分類を行った。

今回,線形判別分析(LDA)を使用し,80%のデータを訓練,20%をテストにランダムに分割し,4種類の細胞を分類する2つの軸(LD1,LD2)を抽出した(図4(b))。 LDAを用いた分類により,4種類の細胞はそれぞれ異なるクラスターを形成し,テストデータの分類精度は100 %一致した。

このように,PRESSは非侵襲な細胞診断が可能である。当システムは再生医療における細胞の品質管理やバイオ燃料およびスマートセル産業における材料生産,創薬スクリーニング,また希少な受精卵などの細胞診断への応用が期待される。次章では,再生医療での細胞加工に求められる細胞の品質管理として,神経細胞の識別およびその機能評価の実例を紹介する。

4. PRESSによる神経細胞の機能評価

図5 ヒトiPS細胞に由来する交感神経の分類
図5 ヒトiPS細胞に由来する交感神経の分類

当グループでは,これまでにヒトiPS細胞から交感神経を作製する技術開発を行ってきた11)。自律神経として働く交感神経はニコチンに応答することが知られている。分化した神経細胞は,iPS細胞とは異なる形態と細胞内情報をもち,ニコチンに対する応答性を示した11)。はじめに,PRESSを用いて分化前後の細胞を識別できるか検討した。iPS細胞と神経細胞からラマンスペクトルを取得し(図5(a)),教師なし学習法である主成分分析(PCA)を行った結果,iPS細胞と神経細胞は異なる細胞集団であると識別された(図5(b))。

神経細胞は特定の刺激に反応し,カルシウムイオンを細胞内に取り込む。これが引き金となり,活動電位として電気的な信号を発する。神経機能の理解にはカルシウムイメージング法やパッチクランプ法,微小電極アレイを用いた細胞外電位測定法といった高度な技術が必要な手法が一般的に用いられる。そのため,これらの手法を代替する技術開発により,簡便な神経機能の評価を可能にし,神経を制御する物質の探索にも応用が期待される。そこで,我々はPRESSが神経活動を非侵襲に評価できるかどうか検証した。まず,従来法としてカルシウムに反応する蛍光プローブであるFluo-8を用いた試験を行った。ニコチンによる刺激に応答した神経細胞はカルシウムイオン濃度の増加と蛍光強度の増加を示した(図6(a))。次に,PRESSを用いてニコチンの添加前後で神経からラマンスペクトルを取得した。PCA解析の結果,刺激前後の細胞は異なる分布を示し,神経が異なる状態にあると識別された(図6(b))。

図6 ニコチンに対する神経細胞の応答性評価
図6 ニコチンに対する神経細胞の応答性評価

PRESSで検出したラマンスペクトルの変化が,細胞内へのカルシウムイオン流入に起因するものかどうかを検証するため,神経が活動できない(ニコチンに応答しない)条件つまり,溶媒からカルシウムイオンを除いてPRESSによる検出を再度行った。その結果,PRESSはカルシウムイオンの流入を伴う神経活動の変化を捉えていると考えられた(図7)。以上から,PRESSは細胞種類の識別だけでなく,分化状態や神経活動,機能の評価にも応用可能であることが示された。

図7 カルシウム不含時のニコチンに対する神経細胞の応答性評価
図7 カルシウム不含時のニコチンに対する神経細胞の応答性評価

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