関心領域のみをすばやく分子分析するラマン分光技術

著者: 熊本 康昭

1. はじめに

筆者は2005年より,光を利用するフォトニクス計測分析技術の研究開発に取り組んでいる。2015年以降は特に,体を視る/診るフォトニクス計測分析技術の研究開発に注力し,未来医療基盤の創出を目指している。その取り組みの1つとして筆者は,医用ラマン分光計測技術の研究開発を行っている。ラマン分光法は,単色のレーザー光の照射により発生するラマン散乱光をスペクトル(=ラマンスペクトル)として検出する。ラマンスペクトルは,薬品による化学固定や染色,物理的な破砕などの分析対象の測定前処理なく得られる。また,分析対象に含まれる分子の情報を包含し,細胞や組織の組成や化学状態を反映する。これらの特徴によりラマン分光法は,医療・ヘルスケアにおける非侵襲的・低侵襲的なその場検査・診断への応用の可能性を有する。これまでにラマン分光法を応用した内視鏡技術やハンドヘルドプローブの研究開発は盛んに行われており1〜5),それらの一部は医療機器・ヘルスケア製品として実現されている6, 7)。一方で,これまで研究開発されている非侵襲的・低侵襲的なその場検査・診断用のラマン分光分析技術は主に,単一点の測定を行なうものであり,測定視野内を空間分布する細胞や組織の分析には適していない。レーザービーム走査により空間分布の分光計測(=分光イメージング)を行えるハンドヘルド型プローブ8)は,分単位の時間をかけてラマンスペクトルの空間分布を取得するため,体動のある人の分析への応用は難しい。

以上の背景のもと筆者は,分析対象を走査せず秒単位の時間ですばやく測定する“関心領域選択的ラマン分光分析技術”を研究開発し,その手術ナビゲーションへの応用を目指している。本稿では「関心領域選択的ラマン分光分析技術」のコンセプトと原理および実証実験を紹介し,本技術の医療現場への実装に向けた展望を述べる。

2. 関心領域選択的ラマン分光分析技術

分析対象を走査せず秒単位ですばやく測定する「関心領域選択的ラマン分光分析技術」のコンセプトを説明する。測定視野内におけるラマン分光分析の対象領域すなわち関心領域は空間的に局在しているとする(図1(a))。従来のラマン分光技術では,局在する関心領域を測定する場合,1座標ずつ順次ラマンスペクトルを取得する(図1(b))。或いは,関心領域の分布を気にせず,ライン状に整形したレーザービームにより視野全体を走査したり(図1(c)),正方格子状に分割したレーザービームにより視野全体をまばらに多重サンプリングしたり(図1(d))することによって,関心領域の複数座標のラマンスペクトルを取得する9, 10)。これらの従来手法は,関心領域のラマンスペクトルを密に取得したい場合には,走査により時間を要する。また,関心領域の分布を気にせずラマンスペクトルをサンプリングする場合には,関心領域以外から発生するラマン散乱光が関心領域の信号と混合したり,試料に対して不要な光毒性のリスクを与えたりするため,測定の正確性や安全性を損なう場合がある。

図1 (a)視野内の関心領域。グレーの枠により囲われた領域を関心領域と想定。(b〜d)関心領域をラマン分光測定する従来の手法。(b)単一座標を1つずつ順次測定する技術。(c)ライン状に整形したレーザービームにより試料を走査し,関心領域を含む視野全体を測定する技術。(d)正方格子状に多分割したレーザービームにより,試料上の複数点をまばらに同時測定する技術。(e)本稿において紹介する,関心領域を選択的に一括で,ラマン分光測定する関心領域選択的ラマン分光分析技術。
図1 (a)視野内の関心領域。グレーの枠により囲われた領域を関心領域と想定。(b〜d)関心領域をラマン分光測定する従来の手法。(b)単一座標を1つずつ順次測定する技術。(c)ライン状に整形したレーザービームにより試料を走査し,関心領域を含む視野全体を測定する技術。(d)正方格子状に多分割したレーザービームにより,試料上の複数点をまばらに同時測定する技術。(e)本稿において紹介する,関心領域を選択的に一括で,ラマン分光測定する関心領域選択的ラマン分光分析技術。

本稿において紹介する関心領域選択的ラマン分光分析技術では,関心領域のみをレーザー照射し発生するラマン散乱光を一括サンプリングする(図1(e))。従来技術とは違い,走査は必要としないため,測定に要する時間を短縮する。関心領域以外にはレーザーを照射しないため,関心領域と非関心領域の信号の混合は避けられる。また,試料への光毒性のリスクは最小限に抑えられる。

関心領域選択的ラマン分光分析技術では,関心領域の分布は必ずしも既知である必要はない。このようなケースとして,試料の何かしらの情報(解剖学的な知見など)により分布の傾向が予想できる場合が挙げられる。例えば,正方形状の視野の四隅の付近に関心領域が局在しているとわかっている場合,視野全体を測定せず,視野の四隅の付近のみをレーザー照射し測定することで,走査せず一括で,関心領域のラマンスペクトルを得られる。関心領域と非関心領域の信号の混合と試料への光毒性のリスクも抑えられる。

上記の測定コンセプトを実現するために,筆者は関心領域選択的ラマン分光分析技術を創出した(図2)。関心領域のみへのレーザー照射には,レーザービームの多分割の用途において広く利用されている空間光位相変調器を用いる。レーザー照射位置から発生するラマン散乱光は,レンズによって試料面に対し共役な面に集光される。集光面には,本技術のキーデバイスの光ファイバー束を配置する。この光ファイバー束は,一端において細密配列されており,他端においてマルチライン配列されている。細密配列側の端面は,試料から発生するラマン散乱光を座標ごとに,異なるファイバー素線により受光する。マルチライン配列側の端面は分光器の入射口に配置されており,各ファイバー素線から射出するラマン散乱光は,互いに混合することなく,分光器の射出口に設置された2次元アレイ検出器により,ラマンスペクトルとして記録される。光ファイバー束の両端における各ファイバー素線の位置の関係を知ることにより,2次元アレイ検出器上において記録されたラマンスペクトルから,試料面におけるラマンスペクトルの空間分布を再構成する。以上により,関心領域をその分布によらず一括で,ラマン分光測定する。

図2 関心領域選択的ラマン分光分析技術の動作原理。独自の光ファイバー束により,関心領域から発生したラマン散乱光を混合させることなく,分光器により同時にスペクトルとして記録する。
図2 関心領域選択的ラマン分光分析技術の動作原理。独自の光ファイバー束により,関心領域から発生したラマン散乱光を混合させることなく,分光器により同時にスペクトルとして記録する。

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