月刊OPTRONICS 特集序文公開

ポスト量子力学100年 光がつなぐ未来イノベーション

序論:フォトニクスが拓く量子力学第二世紀 著者:東京大学 荒川泰彦

1.量子技術は国家競争力と社会構造変革を支える基盤体系

21世紀に入り,科学技術は単なる研究開発の対象を超え,国家戦略および文明基盤そのものを規定する要素として再認識されつつある。「AI・半導体・量子・フュージョン・宇宙」といった重点分野を軸に,我が国の科学技術政策は新たな段階へ移行した。とりわけ国家安全保障の視点が科学技術政策の中心に据えられるようになったことは,DARPA型研究支援に象徴される国際的潮流を踏まえれば,基盤科学を長期的国家投資として捉える歴史的転換点であると言える。

内閣府は2020年の「量子技術イノベーション戦略」を起点として,「量子未来社会ビジョン」(2022年),「量子未来産業創出戦略」(2023年),「量子産業の創出・発展に向けた推進方策」(2024年)を段階的に策定し,研究開発から社会実装・産業化に至る体系的枠組みを整備してきた。さらに2025年には「量子エコシステム構築に向けた推進方策」が取りまとめられ,研究者のみならず産業界,投資家,スタートアップを包含した統合的政策の必要性が明確化された。量子技術はもはや個別分野ではなく,国家競争力と社会構造変革を支える基盤体系として認識され始めている。

2.量子力学100年の知的軌跡

 量子力学は1900年のプランクの量子仮説,1905年のアインシュタインの光量子仮説を端緒とし,1925年のハイゼンベルクによる行列力学,1926年のシュレディンガーによる波動力学によって理論体系として完成した。当時の研究交流の環境は現在とは比較にならないほど限定的であったことを考えると,1925年から1928年のわずか数年で達成された理論体系の構築は科学史における稀有な知的飛躍であったといえる。

1950年代以降,原子物理,半導体物理,レーザー科学の進展により,電子状態の離散化と制御を基盤とする「量子1.0」の技術体系が形成され,情報通信,エネルギー,計測といった現代社会の基盤技術が生み出された。筆者が研究してきた量子ドットも1981年に我が国で提案され,この歴史的流れの中で発展してきた。

1990年代以降は量子もつれを核心概念とする「量子2.0」が登場し,量子コンピュータ,量子通信,量子センシングなどの研究開発競争が激化している。しかし現時点で広く実用化されている量子技術の多くは量子1.0の延長線上にあり,量子2.0の本格社会実装にはなお時間的成熟が必要である。

3.量子技術を成立させる光の役割

量子技術の急速な発展は,量子力学そのものの理論的進展だけによって達成されたものではない。それを現実の技術として成立させた決定的要因は,レーザーおよびフォトニクス技術の飛躍的発展にある。

光は量子技術において,量子状態の生成・制御・計測・接続という四つの根源的役割を担っている。レーザーは原子や固体系の量子状態生成を可能にし,コヒーレント光は量子重ね合わせや量子もつれの精密操作を実現した。単一光子検出技術は量子限界に迫る計測を可能とし,光子は量子情報を長距離伝送する唯一実用的な媒体として量子ネットワークの基盤を形成している。光格子時計,量子光センサ,光量子コンピュータに至るまで,今日の量子技術の主要分野はいずれもフォトニクス技術の進展と不可分である。ここで強調しておきたいのは,光技術は量子技術の応用分野の一つではなく,その成立条件そのものであるという点である。

量子状態は本質的に極めて繊細であり,外界との相互作用によって容易に失われる。光は非接触・高速・高精度という特性を兼ね備え,量子系へ最小限の擾乱でアクセス可能な唯一の手段である。すなわち,光は量子世界を観測可能・制御可能・工学的に利用可能な領域へと展開する媒体である。言い換えれば,光がなければ量子技術は科学として存在し得ても,技術として成立することはなかった。量子技術の社会実装とは,量子力学とフォトニクスの融合の歴史そのものなのである。

近年,基礎研究と市場開発が同時進行する「コンカレント型」研究開発構造が顕在化している。量子技術では市場への投資が基礎研究を加速し,基礎研究が新たな産業機会を生む循環が形成されつつある。投資家もまた基礎研究への長期的視座を共有することが求められる時代に入った。フォトニクスはこの循環を媒介する技術領域であり,量子科学を社会システムへ接続する役割を担っている。

4.量子力学第二世紀の幕開け

量子力学誕生から100年を経た現在,私たちは新しい技術段階ではなく,人類が自然を理解し利用する枠組みそのものの転換点に立っている。量子力学は不可視の世界を記述する理論として始まり,光という媒介を通じて制御可能な技術へと変貌した。

光は量子世界と人間社会を結びつける「翻訳者」であり,量子技術の未来はフォトニクスの発展と不可分である。量子概念を理解することは,不確実性と相互関係性を受け入れる新しい知の体系を理解することでもある。ポスト量子力学100年は,量子科学が社会の周縁から中心へ移行する時代の起点であり,量子力学第二世紀の幕開けといえる。

「AI・半導体・量子・フュージョン・宇宙」といった重点分野を軸に,我が国の科学技術政策が本格的に展開し始めている。とりわけ国家安全保障の観点が正面から取り上げられるようになったことは,米国DARPA型研究支援に象徴される潮流を踏まえると,量子を含む基盤科学の持続的発展を国家として推進する上で極めて意義深い。

5.むすび

本特集号では,量子技術と光技術が交差する最前線を俯瞰する観点から,冷却原子型量子コンピュータ,光量子コンピュータ,光格子時計,量子もつれ光センサ,ナノNVダイヤモンド量子センサ,生命現象と量子力学の関係を取り上げた。本特集号が,光と量子が協奏する次世代技術への新たな一歩につながることを期待する。執筆をご快諾いただいた,最前線で各分野の研究開発を牽引されている先生方に深く感謝申し上げる。

量子技術は急速かつ多層的に展開しており,その全体像を基礎理論から応用技術,社会実装まで体系的に把握することは,研究者のみならず,企業経営者,政策立案担当者,人材育成の観点からも極めて重要である。しかしそのような俯瞰的整理は未だ十分とは言い難い。この問題意識のもと,本年3月末に『量子イノベーションハンドブック』を刊行する1)。約1000ページで各分野の第一線の研究者・技術者の方々に加え,官界,財団法人等で重要な役割を担う方々,総計約100名が執筆している。本書は量子技術の基礎から応用,世界動向までを包括的に整理したものであり,現時点での量子技術の全体像を把握する一助となることを期待している。

参考文献

1)荒川泰彦 監修,香取秀俊,北川勝浩,寒川哲臣,中村泰信,波多野睦子,馬場嘉信,藤井啓祐 編集,“量子イノベーション ハンドブック”,エヌ・ティー・エス 2026年3月。

荒川泰彦
東京大学 ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構 特任教授

略歴
1980年東京大学大学院博士課程修了。工学博士。1993年東京大学生産技術研究所教授。2007年東京大学ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構長(兼任)。2018年同機構特任教授/東京大学名誉教授。日本学士院賞,紫綬褒章,江崎玲於奈賞,藤原賞,C&C賞,Heinrich Welker賞,IEEE David Sarnov賞,IEEE Junichi-Nishizawaメダル,Balthasarvan der Pol Goldメダルなどを受賞。全米工学アカデミー外国人会員。文化功労者。

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