1. はじめに
細胞診断は細胞の形状,構造,機能,遺伝子情報などを分析する方法であり,診療だけでなく,生物学や医学,薬学などの多岐にわたる分野で用いられている。例えば,疾患の特定やがん進行度の判定,感染症の同定などに利用される。近年では再生医療において,幹細胞技術により作製された細胞の特性や分化状態を評価するためにも用いられている。これまでは,顕微鏡を用いた観察法や,抗体を用いて細胞内外の蛋白質を検出する免疫染色法,細胞を破壊してDNAやRNAを抽出し,遺伝子情報を解析するPCR法などが使われてきた。しかし,これらの手法は掛かるコストのみならず,手技の煩雑さ,細胞への侵襲性といった課題があり,非破壊かつ非侵襲な新しい手法の開発が求められている。
ラマン分光法は,試料にレーザー光を照射した際に散乱する光を検出する。この散乱光は試料に含まれる分子の振動モードによってエネルギーが変化し,その波長が変化する。このような波長の変化(ラマンシフト)から,試料の分子構造や結晶構造を分析することが可能である。ラマン分光法の最大の利点は,試料の前処理が不要といった非破壊な測定が可能な点にある。一方で,細胞から得られる散乱光の信号強度は極めて弱く,細胞などの複雑な試料の分析には得られた信号の高度なデータ処理が必要とされるなどの課題がある。
細胞生物学の分野では,ラマン分光法を用いたショウジョウバエの染色体についての初めての報告以降1),薬剤応答の評価2),細胞運命の探索3),がんの同定4),細胞死のメカニズムの解析5)など様々な研究に応用されてきた。一般的に,細胞や組織から得られたラマンスペクトルは波数500-1800 cm–1付近で特徴的なピークを複数持ち,この領域を主に解析対象として「Fingerprint region」と呼ぶ。これまでにFingerprint region内で検出される細胞に特有な核酸や蛋白質,脂質,ミトコンドリア(シトクロムc)に由来する波数が同定されており6, 7)(図1),これらのピークパターンや信号強度の変化を分析することで,細胞の状態を推定し解析することが可能となっている。
ここでは,ラマン分光を用いた顕微鏡システムの測定方法を述べる。標準的な測定方法には,点照射とライン照射がある。点照射法では,試料の任意のポイントにレーザーを集光し,ラマン散乱光をポイントから検出する。細胞間での比較分析には,測定箇所のばらつきを平坦化するため,複数ポイントのシグナル平均値を使用する必要がある。そのため細胞全体の分析では,ポイント数と撮影時間(つまり細胞への影響)のバランスを考慮する必要がある。一方,ライン照射法では,シリンドリカルレンズを使用して試料上にレーザー光をライン状に照射し,二次元CCDカメラで検出する8, 9)。この手法は一度に多点を検出する利点から,点照射法と比較して撮影時間を大幅に短縮することができる。したがって,主に細胞全体の撮像取得に用いられる。細胞間での比較に際しては,細胞全体のスペクトル平均値を利用することで,より正確な細胞診断が可能となる。しかし,依然として,細胞全体をカバーするために必要なライン照射法は,1細胞に対して数分から数十分間といった膨大な測定時間がかかるため,生きた細胞への損傷リスクが懸念される。
加えて,上述したように,細胞由来のラマン散乱光は非常に微弱で,感度の低さが現在の課題である。レーザ ーの照射時間を長くすることで,より強いスペクトルを得ることが可能であるが,相対的に細胞への損傷が増加し,ノイズも大きくなる。そのため,個々の細胞内での局所的なばらつきを避けつつ,高感度でラマンスペクトルを取得するための新しい顕微ラマンシステムの開発が不可欠であった。
以上の課題を踏まえ,我々は細胞内の複雑な構造による測定領域の偏りを避けるため,細胞の広範囲領域から高速にラマンスペクトルを得るPaint Raman Express Spectroscopy System(ペイント式ラマン顕微システム,以後,PRESSと呼ぶ)を開発した10)。PRESSでは,レーザー光が円形の領域を旋回状に高速走査すること可能にし,従来の点照射法やライン照射法では得られなかった,広域のラマンスペクトルを高速かつ高精度で検出することが可能である。このシステムは,細胞単位での分類に適しており,細胞診断等への応用が期待される。本稿では,PRESSの有用性として,得られる膨大なラマンスペクトルデータに機械学習を統合し,細胞の種類や活性化状態の識別を検証した実例を紹介する。