大気環境情報のレーザーセンシング技術

1. はじめに

近年,全国各地で線状降水帯や台風による顕著な大雨によって,毎年のように数多くの甚大な災害が生じている。気象衛星や気象レーダー等の気象観測装置と気象数値予報モデルの高度化により,台風や前線等の日本列島スケールの気象現象の予測は飛躍的に改善され,それにより人的被害も減少している。その一方で,より局所的な,いわゆるゲリラ豪雨や竜巻のような大気現象の信頼性の高い事前予測は困難であるのが現状である。

局所的かつ突発的な大気現象は,積乱雲の発達に伴って発生することが分かっており,積乱雲の発生場所の予測や発達メカニズムの解明は,これらの大気現象の予測のために重要な課題となっている。豪雨をもたらす積乱雲は地面付近の水蒸気を含んだ湿潤な空気が風によって集められ,上昇気流によって上空に持ち上げられることにより発生する。したがって,より早く豪雨発生の事前予測情報を出して,避難までのリードタイムを長く取るためには,雨が降る前の大気中の水蒸気の量とその流れを観測することが重要である。

しかしながら,現在,水蒸気の分布とその流れを観測できる有効な手法は存在していない。そのため,NICTでは水蒸気と風の空間分布を同時計測することができる赤外線レーザー光を用いたリモートセンシング技術である差分吸収ライダー(Multi-parameter differential absorption lidar:MP-DIAL)の研究開発を進めている。

2. レーザー光で風と水蒸気を測る技術(MP-DIAL)

図1 MP-DIALによる風と水蒸気の計測方法の原理
図1 MP-DIALによる風と水蒸気の計測方法の原理

図1にMP-DIALによる風と水蒸気の計測方法の原理を示す。NICTのMP-DIALは,眼に対する安全性が高く水蒸気の観測に適した波長2 μm帯の赤外線レーザー光を用いている。高パルスエネルギー動作と高繰り返し動作の両立が可能な固体レーザー媒質(Ho:YLF結晶)を用いるパルスレーザーを光送信機に採用しており,長距離の風と水蒸気の同時計測を実現可能であり,眼に対する安全性の高さから,人間の生活空間である地表面付近の観測も可能である。

大気中を浮遊する微小な粒子(エアロゾル)や雲などによって散乱されたレーザー光(散乱光)がMP-DIALに戻ってくるまでの時間から測定対象までの距離を計測することが可能である。同時に散乱光の周波数のずれ(ドップラー効果)を利用して,視線方向の風速を計測することができる。大気の状態や雲の有無などにも依存するが,水平方向だと概ね10 km以上,垂直方向だと大気境界層内(地上から1~2 km程度)の視線方向風速分布が取得可能である。それに加えて,水蒸気に吸収されにくい波長(非吸収波長)と水蒸気に吸収されやすい波長(吸収波長)の2つの波長のパルス状のレーザー光(送信光)を大気中に照射して,ある2地点における水蒸気による非吸収波長と吸収波長の散乱光強度の減少量の比を求めることによって,2地点間の水蒸気量を計測することができる。

NICTでは2019年から,これまでに開発を行ってきた波長2 μm帯の風を計測するコヒーレントドップラーライダーと二酸化炭素(CO2)を計測するCO2-DIALの基盤技術を発展させて,コヒーレント方式の風と水蒸気を同時計測可能なライダー(MP-DIAL)の開発を開始した。図2にMP-DIALの構成図を示す。MP-DIALの送信系は,安定して波長2 μm帯の単一波長の連続波を出力するシードレーザー(周波数基準となるレーザー光源),シードレーザーの発振波長を風と水蒸気の観測に適した波長に制御する波長制御装置,波長制御したシードレーザーの光を光注入同期光源とするパルスレーザーから構成される。

図2 MP-DIALの装置構成
図2 MP-DIALの装置構成

高精度に水蒸気量を計測するためには,最適なレーザー光の吸収波長(λon)と非吸収波長(λoff)を選択する必要がある。図3に波長2051 nm(2.051 μm)近傍での水蒸気とCO2によるレーザー光の吸収の強さ(吸収断面積)を示す。まず,水蒸気量の計測精度を上げるためには2つの波長での水蒸気の吸収断面積の差が可能な限り大きくなるようなλonとλoffを選択するのが望ましい。その一方で,CO2よる吸収の影響を小さくするためには,2つの波長でのCO2の吸収断面積の差が可能な限り小さくなるλonとλoffを選択するのが望ましい。また,水蒸気の吸収断面積の気圧と気温の変動に対する感度が可能な限り低いλonが望ましい。以上の条件から,λon=2050.550 nmとλoff =2051.103 nmを選択した。また,高精度な水蒸気量計測のためには,計測に使用するレーザー光の波長を高精度に制御し安定化させる必要がある。波長制御を行わない場合,シードレーザーであるTm, Ho:YLFレーザーの波長は時間と共に5 pm(5×10–12 m)程度変動する。水蒸気観測の系統的誤差を5%以下に抑えるためには,λonの波長変動を0.2 pm以内に制御する必要がある。NICTでは,CO2の吸収線にレーザー光の波長を制御する手法(Pound-Drever-Hall法)により,基準波長(λcenter)を設け,電気光学変調器を用いて生成される基準波長の側帯波(λref)にλonとλoffを位相同期する手法を新たに開発して1),シードレーザー発振波長の制御に利用している。

図3 水蒸気計測に用いる波長とその波長制御方法
図3 水蒸気計測に用いる波長とその波長制御方法

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