1 光技術と脳・認知科学のクロスロード
人類は古来より「光」を畏敬し,光を利活用して文明を発展させてきた。太陽の光は生命の根源であり,視覚を通じた情報処理は私たちの認知活動の基盤となっている。しかし,近年の技術革新により,光は単なる知覚の対象を超え,脳機能の可視化や制御,治療のための強力なツールへと変貌を遂げつつある。
特に,光技術を活用した脳科学研究は,従来の電気生理学的手法やMRIなどの画像診断技術では捉えきれなかった神経回路の精緻な動態をリアルタイムで観察し,さらには特定の神経活動を選択的に制御することを可能にした。例えば,二光子顕微鏡を用いたin vivo 観察により,in vivoで脳内のニューロンの活動を高解像度で捉えることができるようになった。また光遺伝学(オプトジェネティクス)を用いれば,特定の神経細胞を光刺激によって精密に活性化または抑制できるため,脳機能の因果関係をより詳細に探ることが可能となった。
さらに光を用いた神経疾患の治療も注目される。例えばPhotobiomodulation(光生体調節作用)による神経変性疾患の治療研究では,近赤外光照射がミトコンドリア機能を改善し,神経細胞の保護や再生を促す可能性が示されている。パーキンソン病やアルツハイマー型認知症の治療戦略としても期待が高まっており,脳科学と医療の融合が進んでいる。
また,光を使った認知科学の研究も進展している。近赤外分光法(NIRS:Near-infrared spectroscopy)を活用すれば,例えば発達期の子どもが他者をどのように認識するか,その神経基盤を非侵襲的に調べることが可能となる。このような研究は,社会性や共感の神経メカニズムを解明し,発達障害の理解にも貢献する可能性がある。本特集号では,これらの光技術を活用した最先端の脳・認知科学研究を紹介する。光を用いることで,私たちは脳の理解をどこまで深めることができるのか,そしてその知見がどのように社会や医療に貢献しうるのか。本特集が,読者に新たな視点や発想をもたらす一助となれば幸いである。
2 特集号の概要
2.1二光子励起顕微鏡を用いたマウス脳のin vivo広域観察
二光子励起顕微鏡は,近赤外レーザー光を用いてinvivoで脳深部を高解像度で観察(蛍光観察)できる技術である。通常,観測領域がごく微小のため,広域観察には向かないが,神経回路や機能の包括的理解には,広域観察が極めて重要である。本特集では,マウスの生体脳を広範囲でin vivo観察し,神経回路の動的変化の追跡,疾患研究を可能にする技術について,量子科学技術研究開発機構の田桑弘之先生,高橋真奈美先生にご紹介いただいた。
2.2光不活性化技術を用いた記憶操作法
記憶は神経回路の特定パターンとして保存され,その特定の神経活動の一時遮断により,記憶の形成や想起のメカニズムを調べることが可能になった。本特集では,光を用いた記憶操作に関する最新の研究を京都大学の後藤明弘先生にご紹介いただいた。
2.3光遺伝学を用いた睡眠研究
睡眠は脳の健康維持に不可欠な生理現象であるが,そのメカニズムには未解明な部分が多く残されている。光遺伝学は,光応答性タンパク質を遺伝子操作で細胞に導入し,特定の神経細胞を光刺激によって選択的に活性化または抑制することができ,睡眠に関わる神経回路の解析に威力を発揮する。本特集では,光遺伝学を用いた睡眠研究について東京都医学総合研究所の夏堀晃世先生にご紹介いただいた。
2.4 Photobiomodulation(PBM)を用いたパーキンソン病・脳梗塞治療
近年,PBMが神経疾患治療において注目されている。特に,近赤外光を脳に経頭蓋照射すると,神経細胞の生存・活性が高まり,脳血流が増加し,認知機能の向上に寄与することが明らかになっている。これにはミトコンドリアの光受容体を介した電子伝達促進(機能向上)等のメカニズムが関与していると考えられている。本特集では,パーキンソン病モデルを対象に,構造化光の一種である光渦(螺旋を描く波面を持つ光)を用いた新しいPBMの可能性について検討した研究を慶應義塾大学の小川恵美悠先生にご紹介いただいた。また高い生体透過性を持つ「第二近赤外光」(1000-1700 nm)を用いた脳梗塞治療についてマサチューセッツ総合病院/ハーバード大学の柏木哲先生にご紹介いただいた。
2.5 アルツハイマー型認知症に対する光治療
アルツハイマー型認知症は,神経変性疾患の中でも特に患者数が多く,治療法の開発が急務である。近年薬剤治療が急速に進んでいるが,副作用の可能性から光治療への期待は高い。前項で述べたPBMに関しては,特定波長の光照射がアミロイドβ の蓄積を抑制し,神経機能を改善することが示され,国外を中心に製品化が進んでいる。本特集では,光化学反応を利用した新たなアプローチについて,東京大学の富田泰輔先生にご紹介いただいた。光酸素化触媒投与と光照射により,アミロイドβの凝集抑制と除去を狙っている。
2.6 近赤外分光法(NIRS)からみる他者認知の発達過程
NIRS(fNIRS)は,脳に近赤外光を経頭蓋照射し,血行動態変化を測定することで脳活動を推定する技術である。fMRIと比べて装置が小型で動きに対する制約が少ないため,日常環境での脳計測に活用され,認知科学分野での応用が進んでいる。本特集では,他者認知の発達におけるNIRSの応用について新潟大学の小林恵先生にご紹介いただいた。発達障害の理解や教育分野への応用につながるものと期待される。
本特集号で取り上げた研究は,神経科学・認知科学・医療・教育の各分野において新たな知見を提供するのにとどまらず,社会に無限の希望を与える可能性を秘めている。このような光技術の進展が,今後ますます加速し,脳・認知研究にイノベーションをもたらすものと期待している。最後に,ご多忙の中,本特集号の執筆にご協力いただいた先生方に厚く御礼申し上げます。
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