1. はじめに
心拍は人のバイタルサインの中でも最も基本的なものである。日常動作中や就寝中,あるいはスポーツ中などにおける心拍の変動を,特別な装具を身に着けることなく非接触に計測できれば,ヘルスモニタリングやトレーニングの評価などにおいて貴重なデータを提供できると考えられる。これまでに,マイクロ波や光を用いて心拍に伴う胸部の微小変位を非接触で計測する技術が存在している。
しかし,マイクロ波の波長はcmオーダと長いため,反射位相を計測しても聴診器のように心臓の詳細な動きを反映した情報が得られるわけではなく,心拍レートを推定するといった用途に留まっている。一方,光を用いると分解能は高まるものの,衣服で容易に遮蔽されるため,露出した皮膚を直接計測することが必要となる。
ここで,両者の中間の波長を有するテラヘルツ波を用いると,胸部の詳細な振動を衣服越しに非接触計測できると考えられる。テラヘルツ波の送受信技術は長らく未開拓であったが,近年になって実用的な水準の送受信器が出現しつつある1~3)。しかし,それをレーダーとして応用するにはシステム化に向けた課題を克服する必要がある。特に,テラヘルツ帯においてはフェーズシフタおよびサーキュレータの作製に適した低損失材料が未だ存在しないため,ビーム走査および送受信波分離の実装が難しく,そのため小型集積化されたレーダーシステムを構築することは困難である。そこで,我々はその解決に向けて新たな導波路構造を提案し,フェーズシフタおよびサーキュレータを用いることなくテラヘルツレーダーを構築する手法を考案した4)。
本稿ではそれを概説するとともに,心拍計測への応用を原理実証した実験について解説する。
2. 計測法の概要
提案する構造は漏れ波アンテナ(Leaky-wave antenna,LWA)に基づく。LWAとは,導波路から空中に波動を連続的に漏洩させることで指向性ビームを形成するアンテナである。このようなLWAは例えば導波管の管壁に沿ってスリットを設けることで実装でき,給電周波数を掃引すると導波路内外の空間における位相整合条件に従って指向性を変化させることができる。LWAは従来からマイクロ波帯で用いられてきたものであるが5),高ゲインのアンテナをコンパクトに実装しつつ,フェーズシフタを用いずに指向性を可変できることから,近年テラヘルツ帯において注目されてきている6~8)。従来のLWAの設計においては,導波路への入力パワーの全てが空中に放射されるように考慮されていた。
そこでは,LWAは導波路入力ポートと空間出力ポートを有する2ポート素子とみなされる。しかし,そのような2ポート素子をレーダー用のアンテナとして用いる場合,LWAから送信されたレーダー信号に対する反射波を同一のLWAで受信すると,可逆性により受信波が入力ポートに戻ることになる。したがって,サーキュレータがない限り受信信号をテラヘルツドップラ測定に基づく非接触心拍計測の試み個別に取り出すことはできない。そこで我々は新たに,LWAを対称4ポート素子として利用することを着想し,330-500GHz(WR2.2)にかけて動作するレーダーシステムを試作した。その原理を図1(a)に沿って説明する。
まず入力ポートP1より励振されるTE10モードのテラヘルツ波はT字分岐で二分され,両側のLWAに導かれる。LWAの放射量は意図的に半分程度に抑制されており,二分された後のテラヘルツ波はさらに空中への放射波と導波路内残存信号とに二分される。空中に放射される波動はTE偏波ビームとなり,その指向性は周波数によって変化する。導波路内の残存信号は出力ポートP2およびP3に到達し,2台のゼロバイアスショットキーバリアダイオード(Zero-biased Schottky Barrier Diode,ZBD)によって受信される。
なお,P2およびP3の手前にある導波路の90°ベンドは,外付けされるZBDのハウジングがLWA表面と平行化されてフラットになることを目的として設けられており,ベンド自体に本質的な機能はない。
ここで,LWAの可逆性のみならず対称性を考慮すると,片側のLWAから送信されたレーダー信号の反射波はもう片側のLWAで受信され,導波路中の残存信号を参照波としてZBDにより検波される。発振周波数を掃引しながら取得されたレーダー信号に対して周波数解析を行うことで,前方に配置された対象物の角度と距離を算出することができる。算出方法の詳細については文献4)を参照されたい。
なお,ここで提案する原理上,距離と角度のそれぞれの分解能の間にトレードオフが発生することにも注意が必要である。図1(b)では作製されたLWAの写真とともに,信号の励振に使用された増幅逓倍器(Amplifier-Multiplier-Chain,AMC)も示されている。AMCは10GHz程度のマイクロ波を32逓倍して増幅し,WR2.2帯で約-8dBmの信号を出力できるものを利用した。2台のZBDの出力はAD変換器に接続されており,AMCの周波数を掃引しながらデータ収集・解析が行われる。このようにしてビーム走査からホモダイン検波までの処理を導波構造上で集積実装可能なレーダーシステムを構築できる。