東京大学,分子科学研究所らの研究グループは,テラヘルツパルス光を用いて1ピコ秒の間だけ強電場を印加することにより,有機分子性結晶を絶縁体から金属へ瞬時に転移させることに成功した(ニュースリリース)。
モット絶縁体である遷移金属化合物や有機分子性結晶に,そのエネルギーギャップよりも大きな光子エネルギーを持つフェムト秒パルスレーザー光を照射すると,キャリアが生成され,それをきっかけにして局在していた電子がいっせいに動き出して金属化すること(光誘起モット絶縁体―金属転移)が報告されている。
しかし,この光誘起相転移では,パルスレーザー光の光子エネルギーが大きいことにより,余剰なエネルギーが系に放出され系の温度が上昇するため,モット転移における電子系やスピン系,格子系の変化を精密に検出することが難しいという問題があった。そこで研究では,光子エネルギーがエネルギーギャップよりもはるかに小さいテラヘルツパルス光によってモット転移を実現することを目指した
研究の対象に,有機分子性結晶κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Brを用いた。この物質は、60K以下で金属になるが,ダイヤモンド基板の上に載せた薄片状の結晶は,低温にすると基板から負の圧力を受けてモット絶縁体になる。
このモット絶縁体状態にあるκ-(ET)2Cu[N(CN)2]Brにテラヘルツパルス光を照射し,その後の吸収スペクトルの変化をポンプ・プローブ分光法で調べた結果,テラヘルツパルス光の照射後1ピコ秒以内に赤外域(0.3エレクトロンボルト(eV)以下)の吸収が増加し,金属に転移することがわかった。
次に,金属化を反映する赤外域の吸収の増加量とその時間依存性が,テラヘルツパルス光の電場強度の増加とともにどのように変化するかを精密に調べ,理論による予測と比較した。その結果,量子トンネル効果によって瞬時にキャリアが生成し,それをきっかけとして約0.1ピコ秒の時間で金属化が起こることがわかった。
さらに,モット絶縁体のエネルギーギャップよりも大きい光子エネルギーを持つ近赤外域のフェムト秒パルスレーザー光で引き起こされる金属化と比較すると,テラヘルツパルス光による金属化の方が転移の効率が高いこと,また,より高速に生じることが明らかとなった。
テラヘルツパルス光の電場成分を用いて相転移を誘起するこの手法は,可視あるいは近赤外域のフェムト秒パルスレーザー光による電子励起を用いる従来の手法と比較してエネルギーの散逸が少なく,エネルギー効率に優れている。このため,高速かつ高効率の光スイッチング素子など,将来の光デバイスへの応用が期待される。
また,この手法は,系の温度上昇を抑えて電子状態変化を誘起できることから,強相関電子系の相転移における電子系やスピン系,格子系のダイナミクスを追跡する新しい計測手法として非常に有望だという。
この研究で得られた分光計測の結果を対象に理論解析を進めることで,電場で誘起される非平衡状態の解明,さらには,相転移の物理的機構の解明につなげることができるとする。今後は,さらに高い強度の電場パルスを用いることによって,新しい電子相の生成や高速相転移現象の探索を進めるとしている。