1.背景
記憶は人間の認知機能の基盤を成す重要なプロセスである。記憶がどのように脳内で形成され,長期保持されるのかを解明することは,認知機能の基本的な理解のみならず,神経疾患の治療にも重要である。20 世紀初頭,てんかん治療のために脳の海馬を取り除かれた患者H.M. 氏は,昔の出来事は覚えているにも関わらず,新たな出来事を記憶することができなかった。この症例研究から,海馬は短期的な記憶形成に重要な役割を果たすことが示唆された。その後の研究で,海馬が短期記憶の一時的な保存に寄与していること,長期的な記憶は海馬以外の皮質領域が寄与していることが明らかになった。この現象は現在では「記憶の固定化」として知られている。しかしながら,いつどのようにして海馬で一時的に保持された記憶が海馬以外に移行するのか,その詳細な細胞メカニズムは明らかではなかった。
記憶形成における分子および細胞レベルでのプロセスの中で,シナプス可塑性,特に長期増強現象(LTP)が注目されている。LTP は神経細胞間のシナプス伝達効率を高める現象である。つまり,学習後に脳内のいつどこでLTP が誘導されているかを調べることで,記憶の固定化において海馬と皮質でいつ記憶が作られるかを検証することが可能となる。しかしながら,脳内のLTP を検出することは技術的に困難であった。例えば薬物実験では投与部位で作用し続けてしまうため,狙った時間でのみ LTP を阻害することが困難であった。そこで筆者らはLTP が起きる時空間情報が得られる新たな技術の開発に取り組んだ。
近年,光を用いた光遺伝学的手法が多く開発されている。神経科学の分野では,神経活動に重要なイオンチャネルを光によって開閉できるチャネルロドプシンが用いられ,光によって神経活動を高い時空間解像度で操作することが可能となっている。しかし,これらの技術では光によって「記憶」を特異的に操作することは困難であった。なぜなら記憶は細胞上に数多く存在するスパインと呼ばれる微細な構造体により形成されるため,従来のチャネルロドプシンを用いた方法では細胞全体の活性を操作することはできても,記憶に関与するスパインのみを特異的に操作することは困難だったからである。そこで筆者のグループは,LTP による記憶形成時にcofilin というタンパク質がスパイン内に顕著に集積する現象に着目し,chromophore-assisted light inactivation(CALI)の技術を用いてその集積するcofilin を光によって不活化する系を開発した。これにより,光によって「記憶」を特異的に消去することが可能とした。
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