東北大学の研究グループは,時間分解電子運動量分光と呼ぶ独自の新規手法を用いて,測定データの精度に課題を残すものの,超高速化学反応で起点となる短寿命分子のフロンティア電子軌道の形状を観測することに世界で初めて成功した(ニュースリリース)。
あらゆる物質は正の電荷をもつ重い原子核と負の電荷をもつ軽い電子から成っており,物質内で原子核に働く力は電子雲(電子が雲のように広がった連続的分布)と他の原子核からの静電力の和として表せる。したがって,化学反応とは物質内の電子雲ないしは分子軌道の形状の変化が先導して起こる原子核配置の変化であるともいえる。
こうした分子軌道の形状そのものを観測しようとする試みは古くからなされている。しかし,化学反応の起点となる反応物ですら,多くの場合はピコ秒の時間スケールで変化してしまうなど瞬時的にしか存在できず,極めて不安定な性質をもっている。ましてや,反応物から反応生成物にいたるまで,化学反応全体を分子軌道形状の観測を通して実時間追跡することは実現困難だった。
今回の研究は,分子軌道形状を観測する手法の一つである電子運動量分光を用いた。この分光は,連続高速電子線を励起源とするコンプトン散乱の運動学的完全実験であり,分子軌道の形状を運動量空間で観測する。運動量空間といういわば逆転した空間で観測することの利点は,反応性など物質の性質の多くを支配する,位置空間分子軌道の原子核から遠く離れた部分を鋭敏に観測できることにある。
こうしたユニークな特質と長い歴史にも拘わらず,電子運動量分光は月単位の積算を重ねてもなお統計とエネルギー分解能が劣悪に留まるという実験的困難を抱えていたため,その研究対象は多くの場合,エネルギー的に安定で,かつ単純な原子分子に限定されていた。
そこで研究グループは,高感度電子運動量分光技術と超高速ポンプ・プローブ技術を高度に組み合わせた形の,時間分解電子運動量分光法の開発に取り組んだ。これは従来の連続高速電子線を超短パルス電子線に置き換えるというもの。超短パルス化による6桁にも及ぶ信号強度の著しい低下や,この分光法に特化したパルス電子線生成技術およびポンプ光パルスとプローブ電子線パルスの時間的マッチングを取る技術などの新規開発要素によって実現した。
時間分解電子運動量分光実験に用いたポンプ光パルスは周波数2.5 kHz,時間幅<120ピコ秒,波長195 nmの真空紫外レーザ光で,プローブ電子線パルスは周波数5.0 kHz,時間幅1ピコ秒,エネルギー1.2 keV。
まず,ポンプ光パルスを標的ガスビーム中の気相分子に照射して,光化学反応を開始させる。一方,プローブ電子線パルスは,ポンプ光パルスとの間に任意の遅延時間を設定したうえで,これを標的ガスビーム中の気相分子に入射して電子運動量分光測定を行なう。反応過渡種のデータは,ポンプ光パルスを照射した場合と照射していない場合の差スペクトルとして得る。
研究グループはこれにより,アセトン-d6分子の3s Rydberg軌道を例にとって,反応性に富む短寿命励起種の分子軌道形状の実験観察ができることを実証した。具体的には以下の3点を確認した。
①アセトン-d6分子の3s Rydberg軌道のエネルギー的深さに合致するバンドが束縛エネルギースペクトル上に現れること。②観測した電子運動量分布(運動量空間分子軌道の二乗振幅確率分布)が,位置空間で大きく広がった3s Rydberg軌道特有の形状を示すこと。③観測した電子運動量分布の形状が最先端の分子軌道理論が予言するものと矛盾ないこと。
「時間分解電子運動量分光」という手法は同研究グループの長年にわたる新規計測技術開発の積み重ねによって初めて可能となったものであり,このことを反映して類似の計画は現時点においては国内外で皆無で,その独創性・新規性は極めて高いという。今後,手法の質的向上を図ることで,励起分子軌道のみならず,光化学反応において原子核配置の変化を先導する形で起こる電子運動の変化の動画撮影,いわば「Molecular Orbital Movie」の撮影も期待できるとしている。
関連記事「分子研ら,燃料電池動作中の触媒電極の硬X線光電子分光その場観測に成功」「原研ら,先端X線分光法で「働く触媒中の電子の動き」を捉えることに成功」「京大ら,世界で初めて溶液反応の超高速時間・角度分解光電子分光に成功」